1回目が1983年のリードホーユー。田原氏が騎手として初めて、八大競争のタイトルを得たレースになった。
年長のファンならば、「83年世代の一角、4歳(当時の表記)で有馬を勝ったあの馬か」と思い出すだろう。ミスターシービー、カツラギエース、短距離路線でニホンピロウイナーと、個性豊かでレベルの高い世代だった。
2回目が93年のトウカイテイオー。屋上屋を重ねる必要がないほど伝説のレースで、田原氏は勝利騎手インタビューの時、涙を流していた。
3回目が95年のマヤノトップガン。菊花賞に続いてこれを勝ち、トップガンは95年・年度代表馬にも選ばれた。田原氏とトップガンのコンビは、引退までG1を4勝し、これは田原氏騎乗馬の中で最多である(次に来るのはマックスビューティーとフラワーパークで、それぞれG1を2勝している)。「田原といえばトップガン」というファンは多い。
97年4月に、マヤノトップガンで4つ目のG1、天皇賞・春を勝っているのだけれども、これが騎手として最後の重賞勝ちである。
98年2月、田原氏は39歳で騎手を引退した。同じ関西で、4歳年上の河内洋氏をはじめ先輩が健在だったので、「早いな」と思う引退だった。
翌年から調教師に転じたものの、騎手時代から取りざたされていた情緒不安定な言動が悪化し、不祥事で競馬界を追放されてしまう。
それでも、騎手としては天才だった。