ちゃぶ台返しのように聞こえるかもしれないが、選択式夫婦別姓なんて、しょせん些細な制度変更だ。いまだごちゃごちゃ反対している人は、絵に描いたような木を見て森を見ずだ。
「男女は結婚して子供を産むのが当たり前」という価値観と社会規範が薄れ、または将来不安で若者が結婚・出産しなくなった現在、家族のきずなや日本の家制度・文化が壊れる前に、新しい家族ができなくなっている。
数百年後に「日本人」がいなくなっているかもしれないという、国粋主義者にとってもっとも深刻な問題を直視していない。
ちなみに、夫婦同姓の「伝統・文化」については、「明治時代になってから始まったものに過ぎない」という選択的夫婦別姓派の意見がよく知られている。ただ、近代になってからできた短い歴史であっても、大事にしたいという人はいるだろう。
「作られた伝統」はインテリが好んでやる議論だが、問題を無駄に複雑化し、本質を見失わせるのではないか。筋悪だ。
とことんくだらなく、意味のない反論は、「結婚して姓が変わっても、困ったことがない」だ。ひろゆき風に言えば、「それ、あなたの感想ですよね」というやつで、「困ったことがある」という人の意見で「選択式」が検討されているんだから、「困らない」という感想はお呼びじゃないんだよ。
たとえば先日、「女性の会議は時間が長い」「わきまえておられる」発言等で会長を辞任した森喜朗氏は、2003年にも「鹿児島市内で開かれた「全国私立幼稚園連合会の討論会」にて、「子どもを沢山つくった女性が、将来国がご苦労様でしたといって、面倒を見るのが本来の福祉です。ところが子どもを一人もつくらない女性が、好き勝手、と言っちゃなんだけど、自由を謳歌して、楽しんで、年とって・・・税金で面倒見なさいというのは、本当におかしいですよ」と発言」(ウィキペディアからコピペ)し、批判を浴びたことがある。
(2「発言と失言」の3「首相退任後」を参照)
化石的な保守派の価値観では、そうなるだろう。ところが、今ではどんな保守・右翼でもいえないのではないか。何しろ氷河期世代以降、男性がどんどんと結婚できなくなり、一部のミソジニストは「フェミが悪い」「バカ女が高望みしているのが悪い」と非難もしているが、「他人の税金で面倒」などといったら、非モテ独身男性にブーメランとなってしまう。
近年、自民党議員ですら表現の自由クラスタと結託し、「三次元の女より二次元がいい」というオタクに媚びている節があるのだが、一方で少子化問題等は手つかずのままだ。
ナショナリズムと安定した出生率が両立しているロシアのような例もあるが、日本で「ロシアをお手本にします!」といって立候補しても、当選できないと思う。奇跡が起きて出生率がV字回復でもしなければ、保守派は細るだけ。
それにしても、「全国私立幼稚園連合会」って、今気づいたけど、使途不明金で問題になっている組織じゃねえか。そこに、すでに失言癖で有名だった森氏が招かれていたのか。なんか保守派のつながりが、芋引っ張るように見えてくるね。
関連記事
トゥギャッター版