馬と鹿と野と郎

「世人は欺かれることを欲す」(ペトロニウス)

政府の援助と「表現の自由」をめぐる、根深い感覚。

 あいちトリエンナーレの「平和の少女像」(慰安婦少女像)や、昭和天皇の写真が燃える映像に、抗議や脅迫が殺到し、展示中止になった問題。
 保守派でも、日ごろはアニメや漫画に関係して、「表現の自由」を擁護するものは多い。だから、脅迫電話という露骨な暴力は支持しなくても、もうちょっと洗練された「穏健な」批判として、「税金を投入している展示でやるべきではない」というものがある。

 「私財でやればいい、その表現の自由は保障されている」というわけだ。そういった点は、ドキュメンタリー映画靖国」や、「万引き家族」の時でも、繰り返し問題にされた。そして、この感覚は一笑に伏せるものではなく、根深いと思った。

 ヨーロッパなどを見ていて思うのは、映画やテレビドキュメンタリーなど、幅広い作品が政府の補助を受けている事実だ。ここで単に、「ヨーロッパを見習え。日本は全く・・・」とだけ言っても仕方ない。なぜそういう違いが生じるのだろうか。
 日本の場合、アニメや漫画、果ては自家用車からカップヌードルまで、政府の援助もなく、優れたクリエイターや起業家が、裸一貫で成功した。そういった過去の成功体験が強い分、日本では「本物は公的な支援なんかなくても成功する」という感覚が強いのではないか。
 ヨーロッパ人の場合、アメリカはもちろん、日本ほど自由放任、つまり自由競争と資本主義が優れた商品を生み出し続けるという感覚もないので、政府が税金で芸術を援助することに、違和感がない。たぶん。一方、日本で「芸術」とは、漫画やアニメと比べて堅苦しく、縁遠いものになっている。
 日本における、漫画やアニメの規制問題も、たぶん同根である。今は「ポリコレ」とよく言われるが、「ポリコレ」に縛られてなかったはずの昔の漫画やアニメが、世界に誇る文化になった――という成功体験。それがオタクを、「反規制」だけでなく、「反ポリコレ」に走らせる。