馬と鹿と野と郎

「世人は欺かれることを欲す」(ペトロニウス)

「大学なんて行かなくてもいい」? それは違う。反論する。

 奨学金破産の問題を解決するためには、一刻も早く給付型奨学金とか返済義務のない奨学金を充実させるしかないのだが、ネット上には「返せないのに借りるな」とか「大学なんて行かなくてもいい」と批判・反対するものが多い。
 こういった意見が、どれほど世論や民意なのか。少なくとも自民党から共産党まで、左右ほとんどの政党が奨学金充実の方向に動いており、私が嫌いな維新の会も、「高校の無償化」を実績として誇っていたりする。(実際、これは維新の数少ない功績。)
 まず、「大学なんて行かなくていい」という意見については、大学に行く行かないを決めるのはアナタではなく、一人一人の本人が決めることだ。大学に「行ける権利」があって初めて、「大学は行かない」というのが自由な選択になれる。「行けない」のを、「行かなくていい」にすり替えてはいけない。それは、不自由を勝手に合理化している。
 先日言ったように、私自身は今の中堅大学(関西でいえば、関大や近大より下の大学に意味はあるのか?)に価値を認めていない。(俺、中卒だしね。)が、それとは別に「いける権利」があるべきだ。
 「返せないのに借りるな」については、借金が焦げ付くこと、つまり不況債権には、借りたほうだけでなく、貸した方の責任もある。日本のバブルや、アメリカのサブプライムローンでは、ずさんで無責任な融資によって、多くの銀行・金融業が傾いた。
 返せそうになくてもホイホイ貸して、無慈悲に取り立てるのならば、サラ金闇金ウシジマくんと同じではないか。奨学金を、「学生闇金」に改名しましょ。現実に返済が滞って不良債権の山ができているなら、奨学金そのものを抜本的に見直すしかない。「こいつは将来大物になる」という有望な若者にだけ貸し出すとか。
 池井戸潤の小説やドラマでは、良心的銀行マンに「銀行は慈善事業ではない」と説教する上司が出てくる。慈善事業ではないから、採算の見込みがない事業には貸し出さないのだ。
 しかし今の奨学金は、「教育の機会を与える」という中途半端に慈善事業的な性格によって無責任な貸し出しが横行している。これでは破綻した新銀行東京石原銀行)みたいなもの。