馬と鹿と野と郎

「世人は欺かれることを欲す」(ペトロニウス)

現代のキリスト教と「カラマーゾフの兄弟」「鬼滅の刃」「ヴィンランド・サガ」

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 2019年にアニメも放映されて好評を博した「ヴィンランド・サガ」で語られたように、「神を信じないものは、ラグナロク(最終戦争)の後、地獄に落ちる」というキリスト教の終末論がある。

 この「悪い奴は、いつか地獄に落ちる」という終末論が、昔のキリスト教の魅力だったことは間違いない。
 今でもアメリカには、エバンジェリスト福音派。聖書に書いてあることをそのまま事実だと思っている人らしい)がいるけれど、もう終末論は、世俗化したキリスト教において重要な教説ではない。現代のキリスト教は、信じる者にご利益を与え、信じない人を地獄に落とすものではない。

 後者については、ローマ教皇が熱心にプロテスタントムスリムとの「対話」「共存」を説いていることからも分かるだろう。
 人々が迷信深かった時代には、「ご利益」が魅力だったことは確かだが、19世紀の名作文学「カラマーゾフの兄弟」を持ち出すまでもなく、善人が報われず、悪いことをしている奴がのさばっている例なんて、現実にいくらでもある。別に信じるからといって救われるわけでないことは、みんな知っている。

 こういう時、不利益を承知で人々の心に寄り添おうとすることも、宗教の役目の一つだろう。

 

 そういえば「鬼滅の刃」19巻で、敵幹部の童磨という鬼が、「悪人がのさばっているから、せめて死後に地獄に落ちると思って心を慰めている。人間って哀れ」と、「カラマーゾフの兄弟」のようなことをいっていた。
 吾峠呼世晴先生はなかなかインテリで、ネットの考察まとめなんかを見ると、日本各地の伝承が設定のモチーフとして使われているようだ。「カラマーゾフの兄弟」もまぁ、知っているか、それに近い議論を読んでいるだろう。

 

 余談。
 今、新型コロナウイルスでイタリアは、遺体の処理が追い付かないほど大変なことになっているらしい。郊外に軍用車で運ばれているという話を聞いて、母は「火葬すればいいんじゃ?」と雑な事を言っていた。

 確かに日本では火葬する。仏教では輪廻転生思想から、死者の肉体は魂の抜けた状態と思われているので、火葬が一般的。しかし、キリスト教では死後の復活を信じているので(現世での死は仮死状態で、最後の審判の日に復活して、天国行きと地獄行きが決まる)、遺体は土葬。宗教的・文化的な伝統があるので、安易に燃やすことはできない。
 「ヴィンランド・サガ」では、キリスト教におけるもう一つの大きな柱である「愛」の精神も強調されていたが、作者・幸村誠先生の思想も混ざった独特のものになっている。
 「死は人を完成させる」といった作中の教説は、キリスト教ではないし、たぶん仏教でもない。仏教の場合、死ぬと魂が(別の人間・動物に)転生するだけで、悟りこそが人間を完成させる。
 (以上の解説は、特に宗教に詳しいわけでもないので、間違っているかもしれない。時代・地域ごとの教えの違いは分からない。)

 

鬼滅の刃 19 (ジャンプコミックスDIGITAL)

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検定制度そのものは課題が色々あるけれど、検定意見が正しすぎる…。

www.sankei.com

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 "自由社の「日本の皇室は、神話の時代から現代まで続く」との記述には「神話を史実と誤解する」として、「仁徳天皇は世界一の古墳に祀られている」との記述には「表現が一般的ではない」などとして検定意見がつき、認められなかった。"

 

 「世界一の古墳」ってのは、誰基準ですかね? 日本人がそう思っているだけなら、恥ずかしすぎる。
 「神話の時代から現代まで」って、天皇家歴史学的にさかのぼれるのは、6~7世紀まで(中公新書編集部・編「日本史の論点」、第1章、論点2。)。確かに「日本書紀」等には、神話の時代から皇室が存在していたことになっているが、それじゃあ天皇の御先祖が太陽神(天照大神)という伝説が史実になってしまう。

 
 ちなみに、「日本軍が「(マレーシアなどで)多くの人びとを虐殺」~との記述もあったが、検定意見はつかなかった。」というのは、まるで新しく加わった記述のような印象を与えるが、少なくとも山川の歴史教科書では、前からあった文章だった。
 歴史学的な説や解釈が変化したわけでもないのに、検定意見を付けるとしたら、それこそ文部科学省の思想検閲になってしまう。

 

 

メモ。

  「北斗の拳」の種もみ爺さんみたいな米百俵の精神、素晴らしいです。
 まぁ、日米貿易協定という名のモヒカン合意に踏み荒らされそうですが…。

あのバイクを乗りこなす若者は出てこなかった2020年。

 

 1か月くらい前から、「大友克洋の『AKIRA』は、作中の舞台が2020年で、東京五輪が中止になった世界」「「AKIRA」の通りになりそうな2020年」といわれ、今さっき東京五輪の延期が決まり、改めて「AKIRAは預言書だった?」といわれている。
 いや、でもここは、AKIRAの通りにならなかったことも挙げなければ、フェアではないな。
 東京が爆発で廃墟にならなかったとか、第三次世界大戦が起こらなかったとか、それはいいんだ。一番外した未来描写は、若者のバイク離れで、バイクが若者気分の抜けないおっさんの乗り物になったこと…。
 誰か金田が乗っていたようなかっこいいバイクでチェイスして。

 

AKIRA(1) (KCデラックス)

AKIRA(1) (KCデラックス)

 

 

 

 

右派ポピュリズムの限界と、商業化したオリンピックの終わり。

 感染爆発している新型コロナウイルス。欧米の惨状を見て、のんきなネット右翼は、「日本のやり方が正しかった!」などといっている。

 政府が集めた専門家たちは、そんなにのんきではない。 要するに、「なんとか拡大を防いでいるけど、イタリアのようになる可能性がある」と、引き続き警戒を呼び掛けている。

 防げている理由として、「市民のモラル、努力」があげられていた。確かに日本人は、先進国の中でも特に慎重で、神経質なくらいの国民だろう。もっとも、専門家会議では大っぴらに言えないんだろうが、政府はほとんど役にたっていない。運が良かっただけという気もする。
 また、主に保守派からは、「中国人を入国禁止にすべきだ」と水際対策の強化を求める声が強かった。しかし、水際対策は、「流行を2~3週間遅らせる程度の効果」という専門家もいた。
 現に、イタリアに広がった感染ルートについては、(中国から直接ではなく)ドイツやイギリスを経由していた可能性が指摘されている。「中国からの渡航者」あるいは「中国人」の入国を禁止しても、これでは防ぐことができなかった。

 
 ここにきて右派ポピュリズム的な、自国中心主義が完全に限界をさらしたといえる。WHOを中国とかアメリカとか、特定の国が影響力を行使する組織ではなく、世界各国が協調する国際防疫機関にしなければ、新型コロナのような感染症に対処できない事が分かった。
 ヒト、モノ、カネがグローバル化した時代、といわれて久しい。日本一国が防疫と治療体制を頑張っても、経済が繁栄し続けることはない。

 

 東京五輪の延期、または中止が現実味を帯びる中で、それによる経済的損失も試算されている。数年がかりで準備する大規模イベントに依存すると、経済は脆いということをさらした。

 予算をかけすぎない「コンパクト五輪」というのが近年の流行りだったが、これからその流れはますます進む。
 ロサンゼルス五輪以降、商業化したとされる五輪も、原点に還るしかない。


 麻生太郎財務大臣は、「マスコミが好きそうな言葉」という得意の嘲笑的な修飾を添えて、「呪われた五輪」と形容した。他人ごとのようなキャッチフレーズだ。
 1940年の東京五輪が中止になったのは、直接的には日中戦争の泥沼化で、自業自得でしかない。1980年のモスクワ五輪は、まずソ連アフガニスタン侵攻が悪かったわけだが、選手はキャリアを棒に振った。
 それではさすがに選手が可哀想ということで、チベット騒乱と弾圧の翌年に行われた2008年北京五輪は、政府関係者の開会式ボイコットに限られた。(ただし、民間人が聖火リレーを妨害する事件が頻繁に起きた。)
 しかしそれとは別に、東日本大震災のような大規模災害が起きれば、延期や中止せざるを得なかっただろう。大震災が起きれば延期するし、海外で感染症が大流行すれば延期になる。これに経済効果を期待するというのは、ギャンブル要素を免れない。

 

 (それにしても、ユリアさんのリプで思い出したが、モスクワ五輪の次の1984年ロサンゼルス大会では、ソ連をはじめとした社会主義国が意趣返しでボイコットした。麻生大臣のような保守派にとっては、西側諸国がボイコットしていなければノーカンなのだろう。今回の新型コロナウイルスも、アフリカのバッタ大量発生みたいに一部地域だったら、「無事成功」になっていた。)

 

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