馬と鹿と

「世人は欺かれることを欲す」(ペトロニウス)

走らない名作

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太宰治 走れメロス

 「走れメロス」ほど、読む前のイメージと実際読んだ時のイメージが違う古典も、珍しいのではないか。まず、ヨーロッパの昔話か何かと小さいころ思っていたが、作者は太宰治であるし、「友人のためにメロスが走る話」かと思っていたら、メロスが友人を身代わりにしただけで、しかも眠りすぎたり、のんきに小唄を歌ったり、そんな必死に走っていない。

 ちまたよく言われる「友情のすばらしさ」ではなく、メロスの情けなさだけが際立つ。これは太宰治一流のアイロニーだったのかな? (文芸評論家の斎藤美奈子氏も、「友情」とは異なる解釈をしている。)

「外交の安倍」と食い違う現実?

  その時々の「解釈」はごまかせても、政治スタンスの総体はごまかせない、ということなんだろうな。

 戦前の日本はヒトラーの「わが闘争」から、日本人蔑視(アーリア人種至上主義のヒトラーだから、当然黄色人種も見下している。日本とドイツは、第一次世界大戦で敵同士だったし。)の発言を削除した邦訳版を読んで、「ヒトラーは偉大」と勘違いした人が三国同盟を支持してしまったらしい。

 「安倍総理トランプ大統領は蜜月の関係」「外交の安倍」というのも、戦前並みの認識かもしれぬ。

「100分de名著」 エーコ「薔薇の名前」第1回、私的解説。

 

 

 世界で5000万部以上のベストセラーになったらしいが、日本では売れたのかな。売れたという話を聞かない。
 記号論を専門とする哲学者が書いただけあって、「薔薇の名前」は難解とされている。されているがゆえに、わかりやすく解説する番組の価値がある。(「堕落論」や「日本文化私観」だと短すぎた。1か月かけて番組を見るより、読んだ方が早い。)
 まず「主人公はフランチェスコ会の修道士で、宗派対立を調停するため・・・」といった、日本人にはめんどくさい設定をスルーして、「これはシャーロック・ホームズのパロディーなんだ」というところから入るのは良かった。そういってくれると、がぜん親しみがわくじゃないですか。
 「薔薇の名前」は、作者ウンベルト・エーコが、古本屋でとある古い手記を見つけた、という話で始まる。これはもちろんただの設定で、書いたのはエーコ本人。「ワトソンが書いた文章を、コナン・ドイルが出版した」という設定と同じようなものだろう。

 しかし中世時代に書かれた文章という形式をとったため、その時代特有の遠回しでくどいレトリック(修辞)が延々と続く。番組内でも、あまりの長さのためか、朗読の時ところどころ「略」されていた。
 それでも、最初のページに飾られている一節は面白い。「手記だ、当然のことながら」というのだ。“これはただの××ですよ”と念押しするものに、「ただの何々」であったためしはない。読者はここで、作者エーコから挑発されるわけだ。「この作品の意味を読み取って見せろ」――と。

「やりがい」は政府が決めることではない


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 全然集まってないらしい。
 東京五輪のボランティア募集については、「無償」ということが「ただ働き」として強く批判されているが、本当の問題はそこにないと思う。
 西日本の豪雨災害の際には、大勢の人が復興支援ボランティアで集まった。そこでは、ボランティアに大きな意義や目的があったからだ(できれば十分な報酬も支払われるべきだろうが)。それに比べて、五輪ボランティアに大した意味はない。五輪そのものに特別な思い入れや、深い関心があれば参加したくなる人もいるだろうが、そもそも五輪招致が五割くらいに反対されていた世論の中で、そこまで尽力してくれる自発性など望みようもなかった。

 募集の宣伝文では、学生に向けて「忍耐力、倫理観が養われる」などと呼び掛けている。アホくせぇ。忍耐力、倫理観というのも古臭い価値観だが、大企業や政治家の始めたイベントでただ働きして倫理観が養われるなら、偉大なる将軍様の命令で奴隷労働している北朝鮮人民は、さぞや高い倫理観と忍耐力の塊だろう。
 豪雨災害で困っていたのは、無力な市民だった。東京オリンピックがうまくいかず、困るのは誰だ? スポンサー収入をアテにしている大企業、森喜朗会長、小池都知事くらいではないか。個人的にはむしろ、少しは困ってほしい連中ばかりだ。

 お願いだからボランティア不足で存分に困ってくれ、森喜朗

 

「コジコジ」と「永沢君」

 さくらももこ氏の訃報で、さくらももこ漫画の話題が大量に流れる。

 代表作は言わずと知れた「ちびまる子ちゃん」だったけど、ツイッターでは「コジコジが一番好き」というつぶやきも多数。私の中でも、「コジコジ」のようなシュールな世界観でやりたい放題だった方が、切れ味良かったという記憶。
 さくらももこ氏といえば、ちびまる子ちゃんのスピンオフ「永沢君」というのもあった。永沢君の中学時代を描いた作品だが、まる子は別の中学校に進学したようで、一切出てこない。「ちびまる子ちゃん」のように作者の思い出ベースではなく、全くの作り話だと思われるんだが、これが本家「ちびまる子ちゃん」では途中から失われたブラック要素が濃厚だった。