馬と鹿と野と郎

「世人は欺かれることを欲す」(ペトロニウス)

死刑制度が続くことに象徴されるニッポン。

 年末だから、総括…というわけでもないが、まとめ的な話。

 今年はオウム事件死刑囚への死刑執行が次々と行われたり、日本の死刑制度が改めて諸外国から非難されることとなった。死刑の何が悪いって、廃止派はみんな言ってるけど、えん罪の可能性でしょうね。
 生きていればこそ再審請求も出来て、冤罪を晴らすこともできるが、死刑が執行されれば絶対的に取り返しがつかない。しかし、再審請求中の囚人に死刑執行した例もあり、「再審請求を理由に、引き伸ばすことはできない」と法務大臣は説明した。伝聞でしか知らない囚人のことを、絶対死刑になるべき重罪を犯したと確信できる、それほど法務大臣は全知全能の人間なのか?
 冤罪の可能性については、「死刑に限らず、すべての裁判で冤罪の可能性がある」という反論が、これまたよくある。論理形式的には、そう言える。しかし、人間のやることにミスはつきもので、どれだけ技術的に冤罪を減らそうとしても、ゼロにはならないだろう。だからといって、懲役刑をすべて廃止することは当然できないので、現実的な着地点としては、懲役刑より残酷で、取り返しのつかない死刑を廃止しましょう、ということになるのだ。
 新聞のオピニオン欄にあったフランス駐日大使の話によると、死刑批判のツイートをしたら、「欧米では容疑者を射殺しているではないか」などと反論が寄せられたという。この手の「言い返したつもり」もよくあることだ。

 しかし駐日大使も言うように、容疑者の射殺がどうしてもやむを得ないものだったのか、事後的にではあれ厳重に調査される。好き勝手に容疑者を殺しているわけではない。法治国家なんだから。
 やむを得ない射殺は日本でもあり得ることで、別に「欧米では~」といっている奴でも、容疑者の射殺自体を否定しているわけではない。だったら、死刑が廃止されているほうが、より人道的、というシンプルな話ではないのか?
 他にも「被害者遺族の気持ちが~」といった主張もあるが、えん罪においてはすべて意味のない議論なので、省略する。容疑者の裁判に、被害者遺族も参加できるようになった。それ自体はいいことに違いないが、もし冤罪だった場合、「あいつが殺したんだ」などと遺族が被告に向けた憎しみは、勘違いだったということになる。人間は全知全能ではないから、安易に被害者感情に同一化してはいけない。
 以上、二つのネットによくある「言い返したつもり」の例は、今の日本人をヒジョ~~に象徴しているように思えてならない。それは、形式的な、つまらない論理に拘泥し、淫し、結局現状肯定に陥ることだ。

 医学部の入試で、女性が一律減点されていた差別問題もそうだった。ヴォルテールの言葉をプロフィール欄に乗せ、「信念の少女」をアイコンにしていたツイッタラーは、ごちゃごちゃ理由を付けて「女性を差別する合理性」を論じ、全体として「どうすれば世の中がよくなるのかわからない」という実に臆病な議論を展開していた。

 「野党がだらしないから」「他よりよさそうだから」自民党支持といい、自分が、自分たちが政治を良くしていこうという意思はない。政治に妥協や譲歩はつきものだが、今の政治は現実的でより確かな着地点を探る能力も失われ、安倍政権はただ場当たり的な政策を乱発している。

 インターネットでは形式論理的な揚げ足取りが流行ってしまう(私も、ついついやっちゃうんだけど)ようで、「小難しい理屈は別にいい。わたしはこう思う」という直感がやせ細っているように見える。

 ちなみに、文豪ドストエフスキーの四大長編のひとつ「白痴」では、登場人物が死刑に対して「これから確実に死ぬ、という恐怖を与えることは、魂に対する侮辱である」という熱っぽい批判を展開する。いうことが高尚すぎるせいか、死刑論議で参照されることもめったにないが、若いころ社会主義運動に傾倒し、死刑判決を受けて執行直前ギリギリ恩赦で助かった経験のあるドストエフスキーだけに、机上の理論ではない凄みがある。
 ある意味では、現場で激しく抵抗する容疑者を射殺することよりも、武装解除した状態で確実に殺すことを宣告し、機械的に執行する死刑の方が、残酷で非人道的、という見方もできる。