馬と鹿と野と郎

「世人は欺かれることを欲す」(ペトロニウス)

「ドクター・キリコになりたい」と語っていた容疑者と、「今、漫画がものすごくやりづらい」といっていた故・手塚治虫先生。

 (※注意。関連する本をすべて処分しているので、ぼやーっとした記憶だけで書いています。間違いがあったらすいません。)

 
 ALS患者を嘱託殺人した容疑の医師は、SNSで「ドクター・キリコになりたい」と呟いていたという。名作「ブラック・ジャック」のファンなら、誰しも「読み間違えているよ!」と言いたいところだろう。
 毎日新聞夕刊の近事返々にもあったが、ドクター・キリコを「殺し屋」に変えたのは、戦場体験だった。
 従軍医として兵士の治療に当たったキリコだが、満足な医療体制が整ってない中では、重傷の患者を安楽死させるしかなかった。これはキリコが登場するたびに繰り返し語られ、ブラックジャックからは「もう聞き飽きたよ」などといわれる始末。
 メタ的には、途中から読み始めた読者にもキリコのキャラを説明するため、手塚が必要だと思ったのかもしれないが、キリコにとって深刻なトラウマだったことが分かる。まぁというわけで、初期のキリコは「戦場経験で心を病んだ医者」だった。
 さらに、ブラック・ジャックの手術によって助かった女性が、その後家族もろとも事故死したことを聞くと、高笑いしたりと、相当イヤな奴でもある。(実質初メイン回の「ふたりの黒い医者」)
 基本的に我関せずで、面倒ごとに首を突っ込まないブラック・ジャックが、キリコに対してだけは積極的に「殺すな」と突っかかるのも、人の命を救う「光」のブラック・ジャックに対して、医者の「闇」をキリコが体現しているからだ。

(後半では、「患者の命が助かるに越したことはないさ」(「死への1時間」)といったり、ちょっといい奴化したが。)

 
 手塚治虫氏は、鶴見俊輔氏との対談でこう語っていた。「今、漫画がものすごくやりづらい。というのも、主人公に対して悪役を配置すると、そっちの方がずるさとかふてぶてしさが共感を呼んで、読者の人気を得てしまう。そうなるともう、自分で何を書いているのかわからなくなる」。
 「ドクター・キリコになりたい」という医者が現れたことが、まさに手塚治虫の危惧した事態ではないか。巨匠はフィクションが持つ、底知れぬ影響力を理解していた。
 あの容疑者以外、医師で「ブラック・ジャック」を愛読している人はすべて人の命を救おうとしている…、と信じたいが。

 

ブラック・ジャック 1

ブラック・ジャック 1