めまいのしそうな他人の近さ。憐みの奥に。

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 市野川容孝「社会」には、相模原の事件に関連する、重要と思われる記述もある。
 第2部ルソーの章では、ニーチェこそルソーの後継者だ、といった思想史的に面白い指摘もあるが、それは置いといて、ナチスの障害者安楽死政策を支えたのは、医師たちの「かわいそうな人たち」という同情に他ならない、とドイツの精神科医ドゥルナーはいう。
 「病気のない社会、病気のない人間という理想にかられつつ、多くの医師たちは、目の前にいる人間を何としてでも変えなければいけないと考えた。その結果、何らかの治療を施しても病気のままの人は、不治と宣告され、その人々の病気は耐えがたいものであり、だから終わらせなければならない、ということになったのである。しかし医師たちが抱いた憐みの多くは、たいていの場合、自分への同情だったのであり、今でもそうである。目の前の病気や障害をそのまま受け入れることを、医師たちは屈辱と感じる。それは、自分の抱く健康な人間という像に反し、治療という自分たちの努力に逆行することだからである」(135~136ページ)
 それを「障碍者施設に侵入して、殺害する」というところまでやってしまった、相模原市の事件から1年くらいがたった。 思えば犯人も、障碍者施設に勤めてから、「障碍者はかわいそうな人たち」という見方が、「かわいそうだから、生きていてもしょうがない」と変化して、殺害に至ったことをうかがわせる。
 大げさに言えば、不登校の子供に対する、親の過剰で浅はかな反応、カウンセラーのような、冷静な第三者だったら全く原則に反する言動も、親ゆえの「あわれみ」かもしれない。
 自分の子供は、子供のままでいてはいけない。将来自分と同じか、それ以上の立派な人間にするために、親は「教育」しなければならない。そういう親としての社会的責任だけでなく、いつまでも子供を養っていけない老後のこととか、多少自分の利害まで絡むから、なおさらだろう。
 市野川氏は、「あわれみ」という心理の問題を、メルロ=ポンティを借りて、「めまいのしそうな他人の近さ」と表現する。生まれたばかりの幼児が、親を他人と認識していない「幼児的全能感」は、心理学でよく言われることだが、親も往々にして子供を「自分と全く違う他人」と認識しない。
 「まさか我が子が不登校になるとは」といううろたえ方も、膨大な可能性とリスクを持った他人ではなく、ある程度自分の似姿ととらえようとする、その「近さ」にあるだろう。
 貴戸理恵不登校は終わらない」が取材で聞き出したように、親は不登校になった、どうにもならない子供とじたばた格闘するうちに、深い淵のような限界を見る。その「断絶」は、ある意味で、親の「立派な教育をして、子供を立派に育てる」という全能感を去勢していく過程と言える。
 子供はあくまで独立した一人の人間で、親と子供は「他人」である。冷静になれば当たり前のことだったかもしれない。しかし冷静になれないのは、現代日本で親と子供が「めまいのしそうな近さ」だからではないか。
 (この前トゥギャッターで批判の応酬になった時、広田照幸「日本人のしつけは衰退したか」を挙げた。昔は「人間関係が密接だった」と思われがちだが、意外なことに親の「しつけ」や「教育」に対する関心は低かった。特に農家の場合、忙しくなると大人は男も女も農作業に駆り出されるため、幼児の子守は、手の空いてる子供、年の離れた兄弟に任されることも多かった。今だったらネグレクトになるかもしれない。)
 余談になるが、凶悪な少年犯罪が起こるたびに、学校現場で強化される「命の尊さの授業」などばかばかしい。犯人は、命の尊さを理解していた。ただし、それは健常者限定だった。健常者の命がとうとく、その福祉に金を回すために、障害者を殺したというのだ。
 戦争も同じ理屈だ。家族や、ひいては国民の命が大事だから、守るために敵兵を殺す。我々が悩み、考えるべきはそのアポリアなのに、「命の尊さ」論はそんな状況を全く考えていない。悩まず、なんかいいこと言った気分になれるからだろう。
 そんなに命が尊いなら、教師や大人たち自身が、困っている公園のホームレスに金を配って渡せばいい。本当は「彼らの命は尊いが、邪魔なので放置して、できれば勝手に死んでほしい」と思っているから、ホームレスは公園から立ち退きを迫られてばかりいる。

 

不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ

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