馬と鹿と野と郎

「世人は欺かれることを欲す」(ペトロニウス)

福祉国家のファシズム的リスク(ルソーを例に)

d.hatena.ne.jp

 私も不登校児だったから、この問題は語りだせばキリがないわけだが・・・、ひとつの興味深い問題を考えてみる。注1の、「鬼かよ」といわれる「冷たい」ネットの意見だ。
 私が考えるに、教育は誰もが認める福祉の最たるものである。生活保護のようにただ単に金を渡すのではなく、「将来への投資」とか「人的資本の強化」とか、とにかくありとあらゆる人がその意義を強調する、キング・オブ・社会保障と税金の使い道だろう。
 ゆえに、たいした理由もなく拒否する者がいると、このような「冷たい反応」を呼び起こす。
 高垣氏の指摘する、今の子供がさらされている「競争原理」もまた、もっともらしいだけの疑似的説明かもしれない。競争原理が緩和され、北欧型の福祉国家になったからと言って、別に不登校が無くなるとも限らない。(私の不登校を思い返しても、当時すでに90年代だったけれど、「競争原理」が原因かどうか実に怪しい。)
 これが例えば兵役拒否だったら、右翼が「愛国心はないのか」と怒っても、反戦左翼の人が、「戦争で人を殺すことが嫌なんだね。いや、君は立派だよ」とほめたたえてくれるだろう。

 マルクス共産主義革命のための綱領を作ったが、「土地私有の廃止」といった、結局成功せず、いまだ実現されてないといえる目標の一方で、「公立学校の無償化」とか、「児童の工場労働の禁止」といった、現在先進国で完璧に実現されているものもある。
 児童労働の制限と、公教育の普及は、子供を過酷な労働から解放し、資本家の搾取、ろくでもない親から解放する福祉だった。
 マルクスの同志エンゲルスは、ルソーを平等主義の先駆者として高く評価した。ある部分では、ルソーを「マルクス資本論がたどっているものと瓜二つの思想の歩み」といっている(「反デューリング論」)。
 そしてまた、そのように評価されるルソーだからこそ、共産主義の理想に潜む危うさを、見事に先取りしていた。恐怖政治で有名なロベスピエールが、ルソーの熱烈な読者だったことも、これまた有名だ(彼はルソーの自宅を訪ねたこともある)。
 ロベスピエールの恐怖政治は、別にルソーの「誤読」とか「曲解」ともいえない。ルソーの本には、「執政体が「お前の死ぬのは、国家のためになる」といえば、市民は死ななければならない」(中公クラシックス「社会契約論」249ページ)という、ドキッとするような一句もあるからだ。
 国王や貴族が思うままに支配する封建社会に憤ったルソー(そしてロベスピエール)だが、いったん革命によって「民意が実現されている」民主主義社会になれば、国家の仕組みは自分の意志で行った約束ということになる。それが社会契約説だ。
 だからこそ、民主主義社会では、国家が死ねと命じることも、国王や貴族の気まぐれではなく、自分もその一人である人民の意志だから、自発的な約束と同じ「正義」になる。(市野川容孝「社会」では、このようなルソー思想のファシズム的傾向を、詳しく検討している。)
 現代の先進国では、恐怖政治のギロチンのようなことはないが、ネットの書き込みが、「言論のギロチン」かもしれない。
 生活保護受給者、引きこもり、登校拒否児、この社会への参加と貢献を拒否するやつは、殺せといかなくても、見捨てろ見捨てろ、その分の福祉を、健康で社会に貢献している人間に回せ、といううめき・・・、グツグツ煮詰まった釜の底のような怨念が、インターネットに満ちている・・・。

 

 市野川容孝「社会」は、2006年の本で積読になっていたが、ルソー、マルクスのような「平等」「再分配」を唱える正義が、繰り返しファシズム的リスクを持つ構造について、興味深い本である。
 市野川氏は、だからと言って平等主義を丸ごと否定するのではなく、なんとか粘り強く実現する道を探る。
 私なりに思っていることも合わせると、再分配、今風に言えば「格差是正」に冷淡な、ロック、ヒューム、アダム・スミスなど、イギリス哲学の系譜のほうが、ファシズム的リスクを免れている(現実のイギリスの歴史がそうなっている)というのはなかなか頭を抱えさせる。

 

社会 (思考のフロンティア)

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人間不平等起原論・社会契約論 (中公クラシックス)

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