馬と鹿と野と郎

「世人は欺かれることを欲す」(ペトロニウス)

概略、シンボリ牧場とメジロ牧場のつながり。社台との和解?

 補足しようと思って書き始めたら、ちょっと長くなった。

inunohibi.hatenablog.com

 メジロマックイーンの祖父、天皇賞メジロアサマは、 シンボリ牧場が生産した馬。メジロアサマシンボリルドルフを輩出した名種牡馬パーソロンは、シンボリ牧場が輸入した馬だった。

 メジロ牧場の創業者・北野豊吉氏は、もともと北野建設を立ち上げて成功した経営者で、個人馬主だったが、競馬に傾倒していく内に、自分で牧場も始めた人。

 似たようなパターンでは、冠名「タニノ」で知られる谷水牧場(のち、カントリー牧場に改称)が有名。現在でも、トーセンジョーダンなど冠名「トーセン」の馬主である島川隆哉氏が、本業とは別に牧場を作って競走馬生産を行っている。

 
 その後もシンボリとメジロの密接な関係は続き、ヨーロッパでモガミという馬を共同購入している。
 モガミは競争成績こそ凡庸だったものの、種牡馬入り後にメジロラモーヌシリウスシンボリを出して成功した。メジロとシンボリを切り離して語ることはできない。

 

 そんなシンボリ牧場も、スピードシンボリシンボリルドルフら数々の名馬を作り出した和田共弘氏が94年に亡くなり、共弘氏の長男・孝弘氏が牧場を継ぐ(三代目)と、時代に合わなくなった所有馬を整理している。
 メジロ牧場の方では、社台一強のすう勢に抗おうと、日高にある他の牧場と連携してヨーロッパから名馬ラムタラを迎えたものの、無残な失敗に終わった。

 もっとも、種牡馬ビジネスというのは、高い種付け料や種付け株(シンジケート)を設定し、繁殖牝馬を集めてから、実際に産駒が走って期待が失望に変わるまで、数年のタイムラグがある。

 実は、ラムタラの赤字そのものは少なかったらしいのだが、ラムタラが成功しなかった間に、社台はサンデーサイレンスその他で圧倒的に成功し続けたのだから、社台とそれ以外の牧場に取り返しのつかない差が出来てしまった。(渡辺敬一郎「日本競馬 闇の抗争事件簿」、第二章)

 
 和田孝弘氏は、名馬シンボリクリスエスの所有権を、半分社台グループに譲渡・売却している。シンボリ牧場の本拠地は千葉県で、そのうち北海道にも分場ができたのだが、社台との接点はなかった。中には、和田共弘氏が社台牧場の創業者・吉田善哉氏と仲が悪かったという話もある。

 それが社台と共同権利者になるまで接近したのは、時代の移り変わりを表していた。

関連する動画と文献

nico.ms

 ここに出てくる「日本ホースメンクラブ(本ではニホンホースマンクラブだったり、表記ゆれが)」も、シンボリとメジロの深い関係を示すプロジェクトだった。

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