馬と鹿と野と郎

「世人は欺かれることを欲す」(ペトロニウス)

プチ・ヒールだった「笑う馬」の因縁 ――ダイタクヘリオスと、その父ビゼンニシキ。

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 本名内緒さんのコメント。

 ”ダイイチルビーの親子三大制覇がかかってた高松宮杯は当時G2でした(距離も2000m) 1996年から1200mになってG1なり98年に高松宮記念と名称も変わっています。”

 まぁこれは訂正しておかざるをえない。

 
 ヘリオスはこの三代制覇を阻止したことで、ライスシャワーほどではないものの「ヒール」認定されたらしい。
 なにしろ、人気馬を下して「じゃあこいつ強いのか」とファンが思って、次のレースで馬券を買うと逃げ潰れたりするのだから、確かにヒール感なくはない「笑う馬」「新聞を読む馬」だった。

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その血の運命?

 ダイタクヘリオスについて語る場合は、父・ビゼンニシキから始めなければいけない。
 ビゼンニシキは、1984年のクラシック戦線を走ったシンボリルドルフと同期の馬で、弥生賞皐月賞、ダービーでルドルフと三度対決したが、2着、2着、14着と完敗した馬。
 弥生賞では、ルドルフが3戦3勝、ビゼンニシキが4戦4勝の無敗馬対決だったが、重賞勝ち馬であるビゼンニシキの方が1番人気に推された。
 それまでルドルフにもビゼンニシキにも乗っていた岡部幸雄騎手は、ここでシンボリルドルフを選択し、以降岡部騎手の名声がルドルフの名と共に定着する。
 ビゼンニシキを管理する成宮明光調教師は、若いころからいい馬を岡部氏に乗せており、岡部氏が初めて大レース(1971年のオークス)を勝ったのも、成宮調教師が管理するカネヒムロだった。また、岡部騎手が憧れていた海外遠征に連れて行ってくれたのも、成宮調教師だった。ビゼンニシキ陣営は、当然自分の方が選ばれると思って激怒し、所属先の鈴木清調教師(成宮調教師と親しい)とも、関係が悪化してしまった。
 まだ競馬界に徒弟制度が残っていて、上下関係の厳しい時代だった。岡部騎手はこの一件で、優秀な騎手が強い馬に優先して乗れる環境が必要だと思い、厩舎に所属しないフリー騎手の先駆けとなる。
 岡部氏は「ルドルフに競馬を教わった」と語っているが、大げさに言えば、ルドルフがきっかけで岡部界氏も、競馬界を変えることになった。
 馬同士がライバルだと思ってたかどーか知らんが、ビゼンニシキ陣営は確実にルドルフを敵視していた。
 ルドルフの話が長くなった。ビゼンニシキ陣営はダービーの惨敗で、さすがにルドルフとの対決にこだわることを辞め、秋はマイル路線に転向しようとスワンステークスに出走する。
 血統背景や、産駒からマイラーダイタクヘリオスが出ていることを想えば、賢明な判断だった。ところがレース中に故障発生し、結局G1未勝利で引退した。

 
 実はこのライバル関係が、ちょこっと子世代に持ち越される。ルドルフ産駒の名馬トウカイテイオーと、ビゼンニシキ産駒の名馬ダイタクヘリオスが、92年の天皇賞・秋で対決することになった。

 春天の後発覚した故障から、ぶっつけで挑むテイオーは、1番人気だったものの体調不良や調整不足説が報じられており、一方のダイタクヘリオスは前走・毎日王冠を日本レコードで制しており、3番人気であるが、どう転ぶか分からなかった。
 ところが、レースはメジロパーマーヘリオスが逃げ競り合い、ペースが加速する中で3番手を追走していたテイオーが失速、前に付けていた馬が最後の直線で次々につぶれ、最後方に位置していた伏兵レッツゴーターキンが優勝する大波乱の結果になった。
 レッツゴーターキンと2着のムービースター(この馬も後方組)以外の陣営にとっては、悪夢のようなレースだったね…。
 有馬記念でもやはり、パーマーとヘリオスが逃げて、テイオーら人気馬が総崩れになった。(ここらへんは「ウマ娘」アニメ2期でもやったね)

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 俺っちとしては、ビゼンニシキ陣営の怨念が、世代を超えてダイタクヘリオスに乗り移ってテイオーをつぶしたんじゃないか…、と勝手に思っている。

 

 参考文献