五輪が真に「アスリート・ファースト」であるなら、開催の是非は代表選手の合議や投票で決めるべきだ。
ところがそうではない。自分たちには何も決められないという。
いやもう、わかっていたことだ。あとは菅総理やバッハ会長の「頑張り」に期待し、IOC、JOCおよび政府の密室会議を通じて、日本中が勇気と感動をもらうしかない。
そもそもすでにエンブレムの盗作騒動や、竹田会長のワイロ疑惑と辞任などなどでイメージが悪くなっていた五輪を、池江璃花子選手を前面に押し出すことで乗り切ろうとしたのは五輪組織委。
池江選手は悪くなくとも、池江選手を利用して開催への気運を盛り上げようとした組織委は、ツケを払わなければならない。
「選手がかわいそう」と情緒に訴えていたから、情緒的な反対論や中止論も出てくる。作用と反作用。
池江選手を盾に「やっぱり五輪開催は正しい」とか、的外れな反対派叩きに走っていた連中こそ、他人事ではなく批判を受け止めよ。
池江選手は、まだ若いころに白血病を発症して大変だったので、政治のこと、社会のことがわかりませんでも責められない。(ワイが彼女の年の頃、なに考えてたか…)
ここで五輪反対派にせよ、支持派にせよ、池江選手を焦点にするのは、ポリコレ論でよく言われていた「『女子供』を盾に…」というやつではなかろうか。グレタさんやゆたぼん君は、「親の操り人形だ」といわれているが、五輪こそ、背後で操っている汚い大人を撃とう。
ふと思ったが、日本ではヘレン・ケラーが社会主義の活動家だったことにふれず、「”三重苦”を乗り越えて~」「サリヴァン先生との師弟愛が~」ばかり強調されているように、政治的立場を脱色して個人の「頑張り」「努力」をたたえすぎではないか?
池江選手その他のオリンピック選手も、そういう日本人好みのスポーツ選手になっている(素なのか、演技なのか、それはどうでもいい)。政治に対してあれこれ言わず、ただ自分に降りかかる困難に向き合って、努力する…。
これを一部の人が言うような「スポーツバカ」というならば、日本のスポーツ文化がスポーツバカを産む「悪い場所」(―椹木野衣風に)といえる。
欧米だと、スポーツ選手を含めた上流階級がリベラルな模範的言動を求められる圧力がずっと高まっており、まぁ欧米の俳優やスポーツ選手の発言も、多少言わされている感がある。
だがそれはつまり、日本的な「政治に対して距離を取る」という態度も、文化やあるいは時代的な状況に過ぎないということ。
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