馬と鹿と野と郎

「世人は欺かれることを欲す」(ペトロニウス)

この3パターンを、自分の小説に当てはめてみると・・・。

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 元記事を読めば、「男が描く女」だけでなく、「男が描く男」にも当てはまる話。  俺っちの作品を分析すると・・・、甘えられる父親的存在 →「今日も鎮守府は開店休業」の提督。ヒロインが恋する崇めたてるべき万能イケメン →「はがねの新世界より」の波多野君。(イメージは風早君)

 やべっ! 男も3パターンの内2つだけだった。
 まじめな話、女性が描けていない作家は、男性もステレオタイプな男ばっかりで、実は描けてないことが多いよ。要は人間について、どれだけ引き出しを持っているかでしょ。

 また「まなざし村」なんちゃら物議をかもしているが、たとえばそうカリカリするよりも、だったら「おっしゃ、フェミニストの複雑で魅力的な心境を描いて物語に絡めてやるわ!」といった意欲を見せればいいんやないの?
 元記事は有益な議論であるが、ちょっと話がなめらかすぎるような気がする。昔、戦後民主主義を呪う反動保守が集まったムック「別冊宝島」シリーズでは、コンクリート詰め殺人事件を「親が共産党員だった」といったどうでもいい情報とつなぎ合わせ、要するに「戦後日本の左翼が悪い」という結論にしていた。
 つまり、少年の凶悪犯罪のような、誰もが疑いようもなくひどいという事件を、自説の補強に使えば、なんでもきれいな結論が出せるということ。これらの凶悪犯罪は、80年代末から90年代、あるいは00年代くらいまで、左翼・右翼双方が好き放題結論を出すためのおもちゃになった。