この記事に関連して、過去のツイートを引っ張り出して載せる。
元宗十三年(1272年)2月に、「忠烈王(のちの高麗国王。当時はまだ王子)が、日本侵略をそそのかした」といわれる記述がある。
しかし、元宗十二年(1271年)3月丙寅(3日)に、「蒙古の詔」として、「日本に使者を派遣したが思わしくない。これは卿も知っているだろう」「今、将に彼を経略せんとし」「屯田せしめて、用ちて進取の計を為し」(以下略)と発している。同時に元朝の最高行政機関である中書省の命令として、営軍、軍糧の準備を具体的に命じている。
ところで忠烈王がそそのかしたと読める、元宗十三年(1272年)2月の記述にはつづきがある。元の都・燕京にとどまっていた世子(忠烈王)だが、従者は皆東に帰りたがって、世子が東征を機会に帰ることを帝に請おうとした。しかしいれられず、人は世子のモンゴル式弁髪・胡服を見て、嘆息して泣くものすらいたという。
世子はフビライ帝の娘婿になって、元の後押しで国王になった。これは歴史書にもはっきり記述があるが、二度目の日本征討は、忠烈王がまず提案している。
元朝の人質になり、元朝に取り入ることでしか国王になれなかった忠烈王。高麗の正史「高麗史」から、属国の立場と機微を読み取ろう。
参考文献
武田幸男編訳「高麗史 日本伝」上巻(岩波文庫)