今月の「100分de名著」では、フランツ・ファノンの出身地が「西インド諸島の~」と書かれていた。
「こんなインドから遠く離れたところが、なぜ“西インド”なの」と違和感を持つかもしれない(私が昔そうだった)。
アメリカ先住民(ネイティブ・アメリカン)が、長らく「インディアン(インド人)」と呼ばれていたのと同じで、例のコロンブスがうっかりちゃっかりアメリカ大陸を「インド」と誤認したことが由来。
その後、ヨーロッパ人はモノホンのインドを「東インド」と呼び、カリブ海諸島を「西インド諸島」と呼んで区別した。(ヨーロッパの世界地図では、アメリカ大陸が西に位置している)
こんな地名一つにも、ヨーロッパ中心主義が出ているね。今では「カリブ海諸島」「カリブ海地域」という呼称の方が一般的。
しかし、フランツ・ファノンを語る際には、その「西インド」の時代こそが重要なのだから、避けて通ることはできない。
クソ校則から見えてくる、「髪の黒い日本人が普通」というクソ学校の耐え難い差別意識。
リベラル派メディアにおいて、今回の裁判は、「ブラック校則」の問題として報じられ、「生徒の自発性を尊重して」「生徒との対話を」と結論付けられている。
もちろんそれは大事だが、「自主性・自発性」の掛け声だけなら、すでに教育現場に広まっている気がする。
電通社員の過労自殺事件を受けて、ようやく見直された労働法の「サブロク協定」は、「労使の合意で残業時間を決められる」としており、それまで事実上の規制なしだった。「使用者(経営者)側、労働者側双方の合意」という建前で、ブラック労働が横行していたのが日本の企業文化。
成人した労働者でさえそうなのだから、未成年が通う学校では、なおさら形だけの対話で、ブラック校則が変わらないままかもしれない。
(一部では「ブラック企業」といった呼称が、「アフリカ系(黒人)に対する差別的表現」という意見も出されている。不快に思う人がいるなら気を付けるべきだろうが、「髪の染色・脱色を禁止する」などというクソ校則は、日本が言葉の問題以前であることを浮き彫りにする。)
根源的には、「髪は黒」という差別の問題である。髪の毛が黒ならば問題なく、髪が茶色かったり赤みがかったり黒以外の場合のみ、「地毛の証明書」等が必要になる。 「黒髪の証明書」というものは必要ない。「髪が黒い日本人」が「普通の日本人」で、それ以外は「証明」が必要になるという差別だ。
今時は、日焼けサロンで肌をこんがり焼くこともできる。それで「ガン黒ギャル」とかいるのだが、「肌がもともと黒いことの証明書」が必要になるのか? 肌の色を問題にすると人種差別っぽいが、「髪くらいなら取り締まってもいい」と思ってないか?
明らかに多様性とか外国人受け入れといわれている今の時代に反しているし、さらに言えば、フランツ・ファノンが生きた時代と同様の差別かもしれない。
ちょうど今月、「100分DE名著」でフランツ・ファノン「黒い皮膚・白い仮面」をやっているのだが、カリブ海のマルティニーク島出身のファノンは、植民地の黒人が宗主国フランスの文化を通じて、「白人が文明的で、黒人は野蛮人」というステレオタイプを刷り込まれる社会構造を告発した。
ファノンはフランスの大学に留学し、医師免許を取得するが、そこで「フランス人(白人)」から自分に対する「開けた(文明的な)黒人」というまなざしを意識する。
白人はわざわざ「文明人ですよ」という証明は必要ないだろうが、黒人はファノンのように、スーツを着て大学に通うことで、ようやく「黒人だけど文明的ですね」という形で認められる。
黒髪こそが「不良ではない証」で、地毛の証明書を見てようやく「髪が茶色だけど、生まれつきだから不良ではないんだね」という教師が、差別をしていないというのか。
余談。
(欧米の植民地というと、大航海時代に原住民に対する虐殺や略奪がやられまくったようなイメージのままでとらえている人が結構いる。ヨーロッパでも国民主権や民主主義のなかった時代と、20世紀以降の人種差別は、地続きの部分もあるし、違う部分もある。
また、どうやら人間は相手に対して「野蛮人」と見下すほど残酷になれるようで、ヨーロッパ人も当初、アメリカ先住民に対する扱いと、中国や日本のような「文明レベルの高い国」とで、明らかに態度は違った。
忘れがちであるが、19世紀まで日本は、オランダと対等な付き合いをしていたのである。)
メモ、新しく会長になる川淵三郎氏について。
セクシストの次はヘイト扇動雑誌とレイシスト作家を愛読する人物かよ。どれだけ人材おらんねん。#川淵三郎 #TOKYO2020 pic.twitter.com/x0WqxOu6LR
— pinball (@flipperpinball) 2021年2月11日
ちなみに、川淵三郎氏が「愛読者です」と誇らしげにツイートしている「月刊Hanada」がどんな雑誌か、知らない人のために、2019年3月号の新聞広告をご紹介します。
— 山崎 雅弘 (@mas__yamazaki) 2021年2月11日
雑誌タイトルに重ねて「韓国自滅への第一歩」。総力大特集は「韓国に止めを!」。こんな雑誌の「愛読者」が東京五輪組織委の次期会長? pic.twitter.com/NoYzl4Nl9d
「日本国紀」を、「あのベストセラー作家が、今度は日本史の本を出した」「これも売れている」と手にとって、(深く考えずに)「いい本だ」という「普通の人」がいるんだよね…。石戸諭氏に言う「百田尚樹現象」。
ただ、「hanada」愛読者というのはまずい。
昔、言語学者のノーム・チョムスキーが、ホロコースト否定論者の本に序文を寄せて大問題になったことがあり、欧米的な感覚でいえば、直接ヘイトスピーチしていなくても、レイシストの著作を愛読しているとか評価するのはアウトらしい。
(ちなみに、チョムスキーはユダヤ系アメリカ人で、左翼でもあるので、反ユダヤ主義者ではない。ウィキペディアを見ただけだが、「チョムスキーは「その本の内容まで肯定したわけではない」「(過去の本で)強い言葉でホロコーストを非難している」[53]、ホロコーストを否認したからといって反ユダヤ主義者とは考えられない」と弁明したらしい。)
「麒麟がくる」メモ。※追記と訂正あり。
そういえば麒麟が来る最終回、光秀が謀反起こすきっかけが将軍暗殺命令という、史実のどこにも出てこない話だったのだけど、足利義昭のわがままっぷりって史実でもすげえんだよな。上洛したあと信長に押さえつけられて憤懣やるかたない足利義昭は全国の大名に信長追討令の手紙をせっせと書く
— 後藤寿庵 (@juangotoh) 2021年2月9日
大概の信長秀吉物時代劇ではこの時点でフェードアウトするのだけど、足利義昭、毛利輝元を頼って、今の広島県の鞘に隠居する。でも本人隠居したつもりなくて、そこを鞘幕府と称して相変わらず各地の大名にお手紙送ってたらしい
— 後藤寿庵 (@juangotoh) 2021年2月9日
私も、「麒麟がくる」の足利義昭は、史実とずいぶん違う印象をもった。もちろん、これは歴史書ではなくドラマなのだから、独自の解釈と人物像があっていいのです。
遠藤賢一さんの安定した演技も相まって、受け入れやすい新しい義昭だった。
(前記事でも使った藤田本、神田本によると、義昭が毛利氏のもとに落ちのびると、織田と毛利でいくつかの交渉が始まった。信長は義昭に対して、京に戻ってもらおうと提案したが、義昭が拒否している。義昭が鞆に落ち着いてから、織田と毛利の対決色が強くなっており、はっきりした記録は残ってないようだが、義昭が毛利をけしかけたという流れが想像できる。)
訂正。「はっきりした記録は残ってないようだが」× →記録はあるようだ。
※追記と訂正。
そういえば、信長と義昭の関係にテーマを絞った本があったな、と思って谷口克広「信長と将軍義昭」を読んだ。やはり、義昭が毛利氏を頼ってからのことも、詳しく書かれている(第6章の第3節)。
後藤寿庵氏がさらさらとツイートしていたように、鞆でも御内書という信長追討呼びかけの手紙を、各大名に出しまくっている。(先のブログ記事に、訂正を加えておこう)
シンプルなまでに信長嫌いを貫いた義昭に比べ、複雑なのは毛利の動きだった。
毛利氏としては、畿内を制圧した大勢力である織田に勝てるかどうか分からないので、和睦の可能性を残しながら、場合によっては戦うという綱渡りのプランを策定している。
大河ドラマ「麒麟がくる」最終回の感想、それと歴史解説。~信長の変貌(?)と四国説。※追記あり
終わった。
真面目に感動してた人にはわりぃけど、かつてなくBL色の強い信長と光秀だったな…。
主人公が光秀だけに、当然の流れとして光秀と信長の関係が濃く描かれる。光秀の謀反には、数えきれないほどの諸説あるんだけど、従来有力だった怨恨説(最近では疑問視されている)にせよ、別に黒幕がいた説にせよ、光秀個人の感情を掘り下げたものは少ない(そもそも史料が少ないから仕方なくも…)。
これまで光秀という存在は、「信長をどう描くか」の鏡に過ぎなかった、といえる。「穏健な常識人」という通俗的な光秀像も、信長という「稀代の革命児」から、鏡として生まれた。
「麒麟」では、謀反の原因については総花的に盛り込みつつ(理由が多すぎるッピ!)、小細工なしで光秀と信長の愛憎を強調したのはいいと思った。
秀吉に時間を取らず、かつて光秀が仕えた義昭で締めるのも悪くない。(昔は気にされていなかったが、一応足利義昭は天寿を全うして、家も残った。)
歴史解説。
「麒麟」で光秀は、「殿は変わってしまった」という。
多くの歴史もので、一貫して怖い性格だったりする信長だが、重要史料として知られるルイス・フロイス「日本史」では、信長に対する記述が、初期と後期でずいぶん違っている(村井章介「分裂から天下統一へ」、105ページ)。
実際、若いころは(弟の)信勝側についた柴田勝家を許した寛容さがあったのに、晩年は家臣を次々粛清(左遷やリストラ)するようになった。
織田家臣団の中で、秀吉と光秀はツートップの存在だったが、晩年の信長は光秀を軽んじ、秀吉へと傾斜していった。その極地が、秀吉の進言に従って長宗我部攻めに方針転換し、長宗我部氏とのパイプ役だった光秀を秀吉への援軍として送り、中国地方に転封したことである(これらを最も重視するのは、四国説と呼ばれる)。
光秀視点の「麒麟がくる」では、秀吉が腹黒になっていたわけが、そもそもなぜ信長にとって、光秀より秀吉だったのか?
藤田達生「織田信長」は、子供のいない秀吉が、信長にとって好都合だったとしている(85ページ)。(信長は評価いまいちの嫡男に家督を譲ったり、晩年は親族優先になっていた。秀吉の方もまた、親族を優先したが、死後に残された一族は幼い秀頼だけで、短期政権に終わった。信長同様に…。)
信長は、やがて天皇をも超える権力を狙っていたのか? 本能寺の変直前、これまで天皇が行ってきた暦の改定に手を付けようとしていたり、そのような推測は成り立つ(村井章介「分裂から天下統一へ」、112ページ)。
が、懐疑的な歴史家もいる。
すまん、忘れていたこと追記。
他に信長本では、神田千里「織田信長」が面白かった。「麒麟がくる」での、比叡山焼き討ちの描き方…、「比叡山の僧侶たちが腐敗、堕落してたから滅ぼしたよー」というのは、ここに詳しく書いてあった。
要するに、太田牛一「信長公記」がそう記しているんだが、太田は信長の家臣だったわけだから、少なくとも宣教師ルイス・フロイスよりは織田家の公式見解だろう。
神田氏は、ルイス・フロイスの伝える信長像との違いを念入りに検証しているが、それは私の手に余るテーマ。
一般論でいえば、史料の記述が少しずつ違うことも、歴史の面白さ。絶対に正確な単一の史料、は存在しない。
「タダより高い物はない」ってな、まとめ。
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