WHOは基本褒めるんだよ…。
”政権幹部らが落胆するのは、国外に政府対応を「成功している」(世界保健機関のテドロス事務局長)と称賛する声があるにもかかわらず、調査では「評価しない」が6割近くに上ったことだ。”
本気でいってんの? 中国に対して媚び媚び言われてるテドロスさんだよ?
真面目な話になると、WHOに限らず国連機関のほとんどは、主権国家を超える権限がない。ために、中国だろうがアメリカだろうが、「協力してもらう」ことしかできない。
テドロス氏の出身国は、中国から支援を受けているとか、そんな狭い事情だけでなく、事務局長という立場の弱さで基本褒めることになる。中国を褒める、日本を褒める。
逆にWHOを「中国の犬」にしたくないなら、アメリカや日本もまずいときは批判される覚悟を持とう。
靖国参拝に対する中国・韓国の批判は、正しいかどうか。また、国内法で戦犯は免責できるのか。
まぁなんかもう、政教分離のことは気にされなくなってる。政教分離が後景に退いた代わりに、、この10年余りずっと議論対象になっているのは、韓国・中国(相手にされてないけど、北朝鮮も)からの批判だ。これはどうでしょうか。
朝鮮半島は、日本と法的な戦争状態に入ったことはない(日本の多数派見解。韓国は認めていない)。日本が併合(植民地化)する過程で、しばしば朝鮮人が武装蜂起し、日本軍が鎮圧したことはよく知られている。
その「暴徒討伐」(当時の表記)や「暴徒鎮圧」(同)に伴う日本軍の戦没者も、やはり靖国に祭られている。(高橋哲哉「靖国問題」の第2章、91~93ページ)
そして先にも述べた、日本軍で戦った朝鮮人が勝手に祭られている問題。A級戦犯が朝鮮半島と特別関係するわけではないものの、「東条英機と一緒に祭られるのは嫌だ」といわれたら、否定しようがない。
中国との関係でいえば、やはり中国ら第二次大戦の連合国が行った戦犯裁判で有罪になった被告が祭られていてることに、国際関係上の信義違反があるといえる。
中国大陸の共産党政府は、戦犯裁判を受諾したサンフランシスコ平和条約に調印していないが、日本と戦った中華民国政府の正統な後継と多くの国に認められているので、「条約に調印していない」というだけで批判を認めないのは無理がある。(三土修平「頭を冷やすための靖国論」の第7章、205~206ページ)
GHQの占領が終わった後、日本の国内法で戦犯は「犯罪者」ではなくなった。野田佳彦元首相も、野党議員の時にそのような法理論で参拝を正当化していた。
ところが、条約法27条は、「当事国は、条約の不履行を正当化する根拠として自国の国内法を援用することができない」と定めている。
どういうことかというと、最近でも韓国の最高裁にあたる大法院が、元徴用工への賠償を認める判決をした。アンケートを見れば多くの日本人が「認めない」「国際法違反だ」という日本政府の方針を支持している。
国際条約で決まったことを国内の司法で左右するな、という法見解は間違っていない。(だからやっぱり、法的な決着をつけるなら国際司法裁判所にゆだねる必要があるだろう。)
大沼保昭「国際法」(ちくま新書)は、3章の2の3で国内法と国際条約(国際法)の関係を論じている。
大沼氏によれば、「日本をふくめて各国の裁判所は一般に国内的な観点を優越させており」日本と韓国の「慰安婦」をめぐる外交交渉も、「象を針の穴に通すほど困難」と悲観的である。(韓国政治が専門の木村幹氏も、政府間対話に希望はなく、国際司法裁しかないとする。)
連合国の対日戦犯裁判もこれと同じで、国際法上すでに正式な裁判として認められているので、日本の国内法だけでひっくり返すことは、不可能に近い。
まぁ今では中国の方が国際司法裁の判決を受け入れない(フィリピンとの領有権争いで敗訴)という自爆外交で、中国からの批判に政治的危険性はなくなったようだが…。
首相や天皇が靖国神社に参拝できない理由。~台湾・朝鮮半島の視点。
法形式的に言えば、靖国は民間の宗教施設なので、そこを参拝することは政教分離の原則に反する。司法の判決でも、すでに「違憲」または「違憲の疑い」が認定されている。(高橋哲哉「靖国問題」の第3章、113~115ページ)
朝鮮出身・台湾出身の軍人は、戦後、日本国籍を失って「日本人」ではなくなったのに、日本軍の戦没者ということで、靖国神社に祭られている。戦犯裁判で死刑になった朝鮮人も同様。
これに対しては、朝鮮のみならず台湾の遺族からも訴訟が起きている。(詳細は田中伸尚「ドキュメント靖国訴訟」参照。)
先日亡くなった台湾の李登輝元総統は、日本軍兵士として亡くなった兄を弔うため、靖国神社に参拝したこともある。これは訃報の際にもふれられていた。
しかし、台湾人すべてが靖国に祭られたことに納得しているわけではない、という当たり前の事実がある。
まとめとして、靖国神社は民間の神道に基づいた宗教施設である一方、戦死者を「勝手に」祭る施設なので、敬虔なクリスチャンでも、ムスリムでも、日本軍で戦死すれば本人の意思を無視して祭られる。さらに遺族の意思も無視されている。
そういう施設に参拝するということは、政教分離の観点のみならず、「全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」(憲法第15条における「公務員の本質」)政治家として問題ではないか、ともいえるだろう。
(長くなったので、続きは次の記事。)
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ガンダム語りの長い続き。「1979年作品」としての機動戦士ガンダム。
(ガンダムの雑感、つづき。)
銀英伝も再アニメ化したんだから、この際ファーストも全部やっちゃいなYO! と思ってたけど、ガンダムも「時代の子」なんだよな。欧米だと特に、「日本で画期的だったアニメです」という注釈なしには見づらいだろう。
(そのせいか、欧米で初代ガンダムは人気がない。そもそも昔の名作が顧みられない市場やファン傾向もあるが、宮崎駿作品と比べても人気ない。)
1979年に初放映されたガンダム。その時日本人が覚えていた最近の戦争といえば、ヴェトナム戦争(1965~75年)だったと思う。このときアメリカ軍はまだ徴兵制で、モハメド・アリが兵役拒否で逮捕され、有罪になったり、戦争の実態とか軍のやることに耐えかねて脱走した兵士を、日本でも支援しようという反戦運動があった(「ベトナムに平和を!連合」略してべ平連。私は小熊英二「民主と愛国」の第16章で知った)。
それと、太平洋戦争末期に、女性や少年も駆り出されて戦わされたイメージをまぜこぜにして、「少年が無理やり戦わされる」というガンダムの世界観ができたんだと思う。
しかし現在、先進国のほとんどは徴兵制を廃止しているし、または、残っている国では良心的兵役拒否が認められている(先進国中で韓国は、兵役免除が厳しく制限されている特殊な例)。
その後知恵で初代ガンダムを見ると、少年兵の禁止や良心的兵役拒否もない「未来の話(SF)」というのがどうも不自然。
近年のガンダムシリーズでいうと、「OO」や「鉄血のオルフェンズ」は主人公グループが正規軍ではなくゲリラ、民兵だった。悪く言えばテロリスト(実際敵側からそう言われたりもする)。今やるんだったら、そういう設定の方が自然かな。
また、富野監督自身が、初代の世界観に自己修正を加えている。初代から次の次の話である「ZZ」や、「逆襲のシャア」から数十年後という設定らしい「V」では、主人公の意思が尊重される流れになった。(まぁ、これらは急な路線変更や作画の破綻などで、初代を超える評価は得られなかったんだが…。富野氏自身が「Vは失敗作」と強調しているし。)
富野由悠季作品は、「ターンA」あたりからを「白富野」、それ以前の作品を「黒富野」という人がいる。私も昔は「全然作風が違う」と思っていたが、今考えてみると、「ZZ」から白化が徐々に進んでいたと思う。
「ZZ」は全体的な話がつまらないんですすめないけど、ブライトが初代に比べて「大人になったなぁ」という感慨深いシーンもあった。
アムロの「親父にもぶたれたことないのに!」は超有名だけれど、続けてブライトが、「それが甘ったれだというんだ。殴られないで大人になった奴なんかいない!」という説教をする。
しかし「ZZ」では、主人公のジュドーに対して、ブライトが「気が済むなら殴っていいよ」というセリフが出てくる。かつてはアムロ(=少年)を殴る側だったブライトが、少年の悔しさと憤りを受け止めて、殴られる側になろうとした。
「V」だともう、主人公を見守る大人が増えている。ここから無意味なキャラクターの死亡がなくなれば、あとは「白富野」の完成なんでは。