馬と鹿と野と郎

「世人は欺かれることを欲す」(ペトロニウス)

ガンダム語りの長い続き。「1979年作品」としての機動戦士ガンダム。

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 (ガンダムの雑感、つづき。)
 銀英伝も再アニメ化したんだから、この際ファーストも全部やっちゃいなYO! と思ってたけど、ガンダムも「時代の子」なんだよな。欧米だと特に、「日本で画期的だったアニメです」という注釈なしには見づらいだろう。
 (そのせいか、欧米で初代ガンダムは人気がない。そもそも昔の名作が顧みられない市場やファン傾向もあるが、宮崎駿作品と比べても人気ない。)
 1979年に初放映されたガンダム。その時日本人が覚えていた最近の戦争といえば、ヴェトナム戦争(1965~75年)だったと思う。このときアメリカ軍はまだ徴兵制で、モハメド・アリが兵役拒否で逮捕され、有罪になったり、戦争の実態とか軍のやることに耐えかねて脱走した兵士を、日本でも支援しようという反戦運動があった(「ベトナムに平和を!連合」略してべ平連。私は小熊英二「民主と愛国」の第16章で知った)。
 それと、太平洋戦争末期に、女性や少年も駆り出されて戦わされたイメージをまぜこぜにして、「少年が無理やり戦わされる」というガンダムの世界観ができたんだと思う。
 しかし現在、先進国のほとんどは徴兵制を廃止しているし、または、残っている国では良心的兵役拒否が認められている(先進国中で韓国は、兵役免除が厳しく制限されている特殊な例)。

 その後知恵で初代ガンダムを見ると、少年兵の禁止や良心的兵役拒否もない「未来の話(SF)」というのがどうも不自然。
 近年のガンダムシリーズでいうと、「OO」や「鉄血のオルフェンズ」は主人公グループが正規軍ではなくゲリラ、民兵だった。悪く言えばテロリスト(実際敵側からそう言われたりもする)。今やるんだったら、そういう設定の方が自然かな。
 また、富野監督自身が、初代の世界観に自己修正を加えている。初代から次の次の話である「ZZ」や、「逆襲のシャア」から数十年後という設定らしい「V」では、主人公の意思が尊重される流れになった。(まぁ、これらは急な路線変更や作画の破綻などで、初代を超える評価は得られなかったんだが…。富野氏自身が「Vは失敗作」と強調しているし。)

 
 富野由悠季作品は、「ターンA」あたりからを「白富野」、それ以前の作品を「黒富野」という人がいる。私も昔は「全然作風が違う」と思っていたが、今考えてみると、「ZZ」から白化が徐々に進んでいたと思う。
 「ZZ」は全体的な話がつまらないんですすめないけど、ブライトが初代に比べて「大人になったなぁ」という感慨深いシーンもあった。
 アムロの「親父にもぶたれたことないのに!」は超有名だけれど、続けてブライトが、「それが甘ったれだというんだ。殴られないで大人になった奴なんかいない!」という説教をする。
 しかし「ZZ」では、主人公のジュドーに対して、ブライトが「気が済むなら殴っていいよ」というセリフが出てくる。かつてはアムロ(=少年)を殴る側だったブライトが、少年の悔しさと憤りを受け止めて、殴られる側になろうとした。
 「V」だともう、主人公を見守る大人が増えている。ここから無意味なキャラクターの死亡がなくなれば、あとは「白富野」の完成なんでは。