辺野古反対派のリストアップや、東京医科大入試の問題は、異なるレイヤーの問題が重なり合って存在するが、今回は、情報公開の原則に反するという点にしぼる。
東京医科大が「隠れて」女性を減点していたことは、エクストリーム擁護派ですら擁護していないので、議論で盛り上がっていない印象。しかし「隠れて」やっているからこそ、それに歯止めをかけるものも、何も存在しない。
左翼の定番論法として、「やがて徴兵制が導入される」というのがあり、それに対して政府は、「憲法で禁止されている苦役に当たる」として否定している。左翼は「安倍政権のいうことなんて守られるか」と思っているし、私もある程度そう思っているが、少なくとも政府が明確に「やらない」といっていることの意味は大きい。
隠すこと自体も問題があるわけだけど、隠されることによって、問題は先送りされる。たとえば東京医科大をはじめとした入試における女性差別も、やましいことだと思ってないなら、堂々と「女性は減点します」と入試要綱にでも記せばいい。もちろんそうであったなら、「女性差別だ」と早くから批判の声が上がっていただろう。そこから、女性が働きにくい医療業界の問題なども、もっと早くから改善が模索されたのではないか。
女性の減点は、「出産で休むから」といった、とりあえずもっともらしい理由がつけられていたが、その説明責任は果たされず、浪人生の減点や、医科大OBの子弟の優遇といった問題まで存在していた。「女性の減点」が開かれた議論にさらされていれば、こういった際限のない差別や優遇もなかったのではないか。
反対派リストアップは、毎日新聞のスクープだった。毎日がスクープしなければ、我々は知ることすらできなかった。そして知らなければ、議論は成り立たない。前に青識氏と論争になったこともあったが、その時点ではOB家庭の優遇といったことまで、差別の全容が明らかになっていなかった。だから今から振り返れば、どっちの主張も不完全な情報を基にした、不完全なものになったといわざるを得ない。
ジェイコブ・ソール「帳簿の世界史」で知ったことだが、アメリカ合衆国憲法第1章9条7項には、「一切の公金の収支に関する正式の決算は、随時公表しなければならない」とある(文庫版、268ページ)。
アメリカは自由の国といわれるが、自由や民主主義の基礎には、情報公開がなければならない。なぜなら、正しい情報がなければ、自由といってもそれは指図されない自由というだけで、自由に考え、判断する材料がないからだ。合衆国憲法制定会議で議論を調停したベンジャミン・フランクリンが、新聞紙の編集・発行人であり、大学や図書館の前身を作っていたことは偶然ではない。
ある政策について、支持派もいれば、反対派もいる。政策を通すために、反対派もある程度説得できるような議論をしなければならない。それが民主主義だ。重大なことはシークレットで知らされていないが、なんとなくうまくいっている国、国民がそれを支持している国というのは、もう民主主義国家と言わない。
追加情報。