馬と鹿と野と郎

「世人は欺かれることを欲す」(ペトロニウス)

感想。トリューニヒトの描き方と、「銀英伝ノイエ」6話。

 アニメの新銀英伝、「トリューニヒトがOVA版に比べてカリスマ性がない!」という感想が、ギャオのレビューやツイートで多いこと。OVAはまだ未視聴。時間ができたら見ようと思っている。
 しかしまぁ、これも百回言われていることだろうが、このアニメはOVAのリメイクではなく、小説の再アニメ化なんだ。
 原作小説の描写に基づく場合、トリューニヒトの描き方はさぞや難しいだろう。ヤンの視点(ユリアン視点ともいわれている)からは、トリューニヒトは空疎で大仰な言葉をもてあそぶ扇動政治家に過ぎないが、一方で、結果的にうまくいく政治センスを発揮する。魅力がわからないが、なぜか人気の危険な男。
現実の世界史でも、19世紀にナポレオン三世は、「叔父(ナポレオン一世)の人気だけ」「小ナポレオン」と散々馬鹿にされたが、近年では大衆政治の先駆者として再評価する分析もある、らしい。となれば、ポピュリズムとか扇動政治家というのは、いつの時代も「小物」に錯覚されてしまうのではないか?

 それにしても、小説とアニメのメディアの違いというのは、制作者にとって大変だろう。地の文で書かれるトリューニヒトの「空疎さ」だけではなく、多く地の文で書かれるヤンの皮肉や諦観も、アニメではいちいち声に出している。余計な心配だけど、原作以上にヤンがイヤな奴に思われそう。

 銀英伝ノイエ、6話。エル・ファシルのときは少女だったが、大人の女性に成長したフレデリカを見ると、本当に今作のヤンが若作りだな~と思う。

 イケメン化されたのは、別にいい。OVAからして、十分イケメンだったし。おじさんっぽさがないと、こいつ年いくつだよって波紋の使い手とか吸血鬼説になってしまう。
 あとそれから、フレデリカが有能で記憶力がいいという設定は置いといても、失礼な言葉というのは言った方よりも言われた相手の方が覚えてるんだよな~、ヤン少将。