馬と鹿と野と郎

「世人は欺かれることを欲す」(ペトロニウス)

漫画の論争・論破が、なぜ「あっちゃあ」になるのか。

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 漫画の論争や論破シーンがつまらない、どころか、大抵「あっちゃあ」と顔をそむけたくなるようなセンスをしているのはなぜか…。
 これは政治系漫画の急所を突いた議論であるが、とりあえず、「自分の主張したいことがあるなら、マンガじゃなくて自分の文章でやれよ」というのが第一に出てくる素直な感想だろう。フィクションで自分の言いたいことを勝利させるのは、とても卑怯な気がする。
 その点、小林よしのりゴーマニズム宣言」シリーズは、作者自身がこめかみに青筋立てて物申すことによって、問題をある程度クリアーしている。あれはもう、絵の付いたオピニオン記事というべきだ。
 雁屋哲原作は、一部でカルト的な人気を誇る「野望の王国」の「警察は日本最大の暴力機構だ!」みたいに、漫画ならではの「暴論」が面白い。各人が自分の主義思想で暴走していくのがいいんであって、陳腐な論破シーンをもうけると、それはもう「陳腐な正論」としてケレン味を失う。
 そして論争シーンで、論争の意味内容よりも重要だと思われるのが、それを通じて表現したい「お話」である。私がよく知っているので最低な論争漫画といえば、「マンガ嫌韓流」だった。あれは「韓国の言ってることは間違っている」という主張以上に表現しているものが、何もない。
 「神聖喜劇」はどうだろうか。私としては、くどくどとした主人公・東堂太郎の「論理」そのものはどうでもよかった。紙屋高雪さんなんかすごい好きみたいだが、私は正直読み飛ばしたくなったし、今はもう、何を言ってたか覚えていない。
 東堂の「反論」を通じて描き出されるのは、まず、東堂という人間の意地とか、強靭な反骨精神だ。しかし、常軌を逸したセリフの長さと論理のしつこさによって、東堂という人間の「底意地の悪さ」や、物事にこだわりすぎる「滑稽さ」も伝わってくる。
 「上官を論破する東堂かっこいい」という単純な感想しか持てないならば、はっきり言ってこのセリフ量は苦痛にしかならないし、初めて読んだ時も、それで挫折しそうになった。
 そういう意味では、「神聖喜劇」は一般的な漫画の論争シーンに当てはまらないし、もしかしたら一般的な人文学の論争にも当てはまらないかもしれない。つまり、マネできないし、マネしちゃいけない例。

 追記。
 「神聖喜劇」は、「陳腐な論破」とは無縁だが、そのセリフの長さが、単なる論破シーンではない「異化効果」を生み出さざるをえない。タイトルの「喜劇」が、そこに符合してくる。金玉袋を右に入れるか左に入れるか・・・、などと超どうでもいいことを規定している軍隊が「喜劇」なら、それに食い下がって延々と論争する東堂の姿も、「喜劇」だ。・・・とまぁ、このようにキリがない多面的な読み方を可能にするのは、さすが戦後文学の傑作(らしい。解説の中条省平氏がそういってる。)である。
 そういう「文学性」がなくなると、あっという間に「あっちゃあ」になるということだが。