痴漢えん罪に恐れおののく者たちが、なぜ共謀罪で警察・司法の横暴を忘れてしまえるのか。

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 痴漢えん罪の問題も、根本的には日本の警察・司法の手法が強権的で、「疑わしきは罰する」姿勢こそが背景にある。警察や司法の体質を改善しない限り、痴漢えん罪“だけ”を批判しても、別の事件でえん罪が発生するだけだ。
 ましてや、「痴漢と間違えた女が悪い」「女が優遇されている」などという難癖に至っては、論外である。村木厚子氏のえん罪事件のように、女性がえん罪被害者になったことだっていくらでもある。
 痴漢えん罪を恐れおののいてみせる者たちが、どうして「テロ対策」の美名になると、警察・司法の横暴さやだらしなさを忘れてしまうのだろうか。
 バカだから? そう考えても差し支えなさそうだが、もう少し頭を使ってみよう。

 二つは直感的な恐怖感が、まるで違う。痴漢えん罪は、満員電車に乗っている男性だったら、誰にでも起こりうる。共謀罪は、日ごろテロや麻薬はもちろん、政治への不満も控えめな一般市民にとって、自分が突然逮捕され、有罪になるとは思ってないだろう。
 痴漢は、自分が男性だったら警戒すべき犯罪でもないので、痴漢を過剰に取り締まるよりも、えん罪のほうが恐ろしくなる。テロは「自分たち、罪のない一般市民」が被害にあう側なので、多少強引だったり乱暴でも、取り締まるのはいいことに見える。
 このように対照的な痴漢とテロだが、そこではやっぱり、「政府と警察はそんなに信用できるのか」「人権は守られているのか」という視点がすっぽり抜けている。問題を、「女が優遇されている」という的外れな主張にすり替えて、ネット右翼は日々愚痴っている。

 

 ニコニコニュースのコメント欄は、主張以前に口が悪くて言論の作法がなってない連中ばかりだが、例えば「関係ない市民を監視できるほど、警察の数はいない」という旨のコメントもあった。どあほぅ、と言ってやりたい。
 それを言ったら、ナチ・ドイツのゲシュタポだって、市民の全生活を監視できるだけの人数はいなかった。市民に対する密告の奨励と、進んで密告した「善良な市民」によって監視社会が生まれたのだ。

 (山川の「世界歴史大系 ドイツ史3」257ページによれば、1937年当時、約50万人都市であったデュッセルドルフゲシュタポ支部スタッフは、わずか126名。65万人都市エッセンで43名、ニーダーフランケン地方住民84万人に対し、22名であったという。)

 こいつら、ナチ時代の市民だったら、確実にユダヤ人を吊るしていた側。

 

ドイツ史〈3〉1890年~現在 (世界歴史大系)

ドイツ史〈3〉1890年~現在 (世界歴史大系)