犬と沼の日記

おひまな読者へ・・・。

野田サトル「ゴールデンカムイ」 7巻を読む。

 巻が進むにつれ、何でもありになってきた。競馬場。馬券が当たって調子に乗る白石。杉元の仲間・キロランケが、成り行きでジョッキーになる(成り行きでやることか?)。ここまで何でもありだと、いっそすがすがしい。

 白石の変顔が面白すぎる。変顔のレパートリーが天才的。1巻の時に、「絵は別にうまくない」といってしまったが、格闘シーンは迫力あるし、動物のち密な書き込み、豊かな表情(かわいい仕草も、見てきたようにリアル)も素晴らしい。美男美女の立ち絵が、相対的に平凡か。

 コメディリリーフ白石も、脱出術に関しては常人離れしているのだが、登場人物がどいつもこいつも常人離れしているので、相対的に「役立たず」扱い。競馬で金はすったが、杉元から「必要な額の金が手に入ったからって、「一抜けた」なんて、そんなこと・・・」というかっこいいセリフを引き出す。おいしいキャラだ。

野田サトル「ゴールデンカムイ」 6巻まで読んだ。

 主人公の杉元は、ヒロイン・アシリパを危険から守るナイト的ポジションでもあるが、アイヌのおばあちゃんが「嫁にもらってくれ」といって、アシリパがまんざらでもない表情だったくらいで、恋愛フラグは立たず。まぁ杉元には、すでに想い人がいるしな。
 連続殺人鬼とか、外見は美しい女性だけど、実は・・・、という殺人鬼とか、話が奇人変人と珍道中というテイストになってきた。けど、ま、一番の変人は鶴見中尉。
 鶴見は狂人っぽいのだが、頭を怪我して「カッとなりやすくなった」というのも本人が言ってるだけだし、ときどきキレるのも、敵や裏切り者を怖がらせるための演技かもしれない。底の見えない人物である。

経済思想における「自由放任」の由来

togetter.com

 あ、今になってケインズについて書いたツイートがRTされている。
 ケインズ「貨幣改革論 若き日の信条」に収録されている中では、「自由放任の終焉」もおすすめである。これは、ケインズが持論に基づいて「自由放任は終わりだ」といっているのではなく、経済思想における「自由放任」の由来を、批判的に検討しているもの。
 よく、アダム・スミスは、「個人の欲望に任せて自由に経済活動すれば、後は“神の見えざる手”が働いて上手くいく」といった人だ、とされている。
 しかしケインズによると、アダム・スミスという人は、当時王国政府の規制で非効率な経済市場を念頭に(典型例は東インド会社)、自由経済を主張したのであり、そんな雑なことはいってない、とする(たとえば58ページ)。
 だとすれば、広めたのは誰か。啓蒙活動家、政治運動、二流の経済学者の発言…、それらがごちゃごちゃに混ぜ合わさり、規制を目の敵にする雑な思想になったらしい・・・。
 (それにしても、「二流の経済学者」という言い切り方が、ケインズらしい。彼は論敵に容赦ないタイプで、ハイエクを「いかにして精神病院入りとなり終わるかを示す希にみる一例」とけなしたこともある。伊東光晴ケインズ」59ページから孫引き。)

 

貨幣改革論 若き日の信条 (中公クラシックス)

貨幣改革論 若き日の信条 (中公クラシックス)

 

 

本当に残念! 「アホガール」

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 アニメ「アホガール」。3話まで見た。

 主人公の女子高生・よしこはアホである。それも、すっかり確立した「残念な美少女」といわれる萌えのコードから外れて、「本当に残念」というレベルにまでアホが特化している。古典的な、記号的馬鹿キャラ。
 今時「バナナが好き」という設定で、「サル並み」という登場人物の評価を強調するとか、絶滅危惧種のようなネタがすごい。
 ただ、「娘がアホなんで、いい男と結婚してくれなきゃ(自分の)老後が心配」という母親(暴走体質)とか、世相を反映したちょっと今風の描写も。
 よし子はひんぱんにパンツ丸見えになる(後先考えず、アホだから)が、サービスシーンというより、制作者が「おら、興奮してみろ」と挑発している気がする。
 「馬鹿だからかわいい」と「ヘイトを集める馬鹿」の違いって、どこで生まれるんやろ。そんなどうでもいいことに思いを馳せたり。

ライプニッツの記述が、見分けるポイントらしい。

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 植村恒一郎氏による、野田又夫「西洋哲学史 ルネサンスから現代まで」の書評。
 「評者は学部生時代に、多くの哲学史を読み比べたが、その際にライプニッツをどう記述しているかに着目したことがある。というのも、デカルトやカントと違って、ライプニッツはその全体像が分かりにくいからである」
 確かにライプニッツはわかりにくい。適当な本の適当な概略では、思想的な独自性が全く分からないし、ライプニッツ本人の著作は多くて、どれをどれくらいまで読めばいいのか見当がつかない。「デカルトだったら、とりあえず「方法序説」と「省察」を読め」というような、入門の見取り図がつかめない。
 ライプニッツがよく書けていれば、それはいい哲学史の本だ、というのは、さすが本職の哲学者らしい説得力ある意見だ。

めまいのしそうな他人の近さ。憐みの奥に。

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inunohibi.hatenablog.com

 

 市野川容孝「社会」には、相模原の事件に関連する、重要と思われる記述もある。
 第2部ルソーの章では、ニーチェこそルソーの後継者だ、といった思想史的に面白い指摘もあるが、それは置いといて、ナチスの障害者安楽死政策を支えたのは、医師たちの「かわいそうな人たち」という同情に他ならない、とドイツの精神科医ドゥルナーはいう。
 「病気のない社会、病気のない人間という理想にかられつつ、多くの医師たちは、目の前にいる人間を何としてでも変えなければいけないと考えた。その結果、何らかの治療を施しても病気のままの人は、不治と宣告され、その人々の病気は耐えがたいものであり、だから終わらせなければならない、ということになったのである。しかし医師たちが抱いた憐みの多くは、たいていの場合、自分への同情だったのであり、今でもそうである。目の前の病気や障害をそのまま受け入れることを、医師たちは屈辱と感じる。それは、自分の抱く健康な人間という像に反し、治療という自分たちの努力に逆行することだからである」(135~136ページ)
 それを「障碍者施設に侵入して、殺害する」というところまでやってしまった、相模原市の事件から1年くらいがたった。 思えば犯人も、障碍者施設に勤めてから、「障碍者はかわいそうな人たち」という見方が、「かわいそうだから、生きていてもしょうがない」と変化して、殺害に至ったことをうかがわせる。
 大げさに言えば、不登校の子供に対する、親の過剰で浅はかな反応、カウンセラーのような、冷静な第三者だったら全く原則に反する言動も、親ゆえの「あわれみ」かもしれない。
 自分の子供は、子供のままでいてはいけない。将来自分と同じか、それ以上の立派な人間にするために、親は「教育」しなければならない。そういう親としての社会的責任だけでなく、いつまでも子供を養っていけない老後のこととか、多少自分の利害まで絡むから、なおさらだろう。
 市野川氏は、「あわれみ」という心理の問題を、メルロ=ポンティを借りて、「めまいのしそうな他人の近さ」と表現する。生まれたばかりの幼児が、親を他人と認識していない「幼児的全能感」は、心理学でよく言われることだが、親も往々にして子供を「自分と全く違う他人」と認識しない。
 「まさか我が子が不登校になるとは」といううろたえ方も、膨大な可能性とリスクを持った他人ではなく、ある程度自分の似姿ととらえようとする、その「近さ」にあるだろう。
 貴戸理恵不登校は終わらない」が取材で聞き出したように、親は不登校になった、どうにもならない子供とじたばた格闘するうちに、深い淵のような限界を見る。その「断絶」は、ある意味で、親の「立派な教育をして、子供を立派に育てる」という全能感を去勢していく過程と言える。
 子供はあくまで独立した一人の人間で、親と子供は「他人」である。冷静になれば当たり前のことだったかもしれない。しかし冷静になれないのは、現代日本で親と子供が「めまいのしそうな近さ」だからではないか。
 (この前トゥギャッターで批判の応酬になった時、広田照幸「日本人のしつけは衰退したか」を挙げた。昔は「人間関係が密接だった」と思われがちだが、意外なことに親の「しつけ」や「教育」に対する関心は低かった。特に農家の場合、忙しくなると大人は男も女も農作業に駆り出されるため、幼児の子守は、手の空いてる子供、年の離れた兄弟に任されることも多かった。今だったらネグレクトになるかもしれない。)
 余談になるが、凶悪な少年犯罪が起こるたびに、学校現場で強化される「命の尊さの授業」などばかばかしい。犯人は、命の尊さを理解していた。ただし、それは健常者限定だった。健常者の命がとうとく、その福祉に金を回すために、障害者を殺したというのだ。
 戦争も同じ理屈だ。家族や、ひいては国民の命が大事だから、守るために敵兵を殺す。我々が悩み、考えるべきはそのアポリアなのに、「命の尊さ」論はそんな状況を全く考えていない。悩まず、なんかいいこと言った気分になれるからだろう。
 そんなに命が尊いなら、教師や大人たち自身が、困っている公園のホームレスに金を配って渡せばいい。本当は「彼らの命は尊いが、邪魔なので放置して、できれば勝手に死んでほしい」と思っているから、ホームレスは公園から立ち退きを迫られてばかりいる。

 

不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ

不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ

 

 

 

日本人のしつけは衰退したか (講談社現代新書)

日本人のしつけは衰退したか (講談社現代新書)

 

 

福祉国家のファシズム的リスク(ルソーを例に)

d.hatena.ne.jp

 私も不登校児だったから、この問題は語りだせばキリがないわけだが・・・、ひとつの興味深い問題を考えてみる。注1の、「鬼かよ」といわれる「冷たい」ネットの意見だ。
 私が考えるに、教育は誰もが認める福祉の最たるものである。生活保護のようにただ単に金を渡すのではなく、「将来への投資」とか「人的資本の強化」とか、とにかくありとあらゆる人がその意義を強調する、キング・オブ・社会保障と税金の使い道だろう。
 ゆえに、たいした理由もなく拒否する者がいると、このような「冷たい反応」を呼び起こす。
 高垣氏の指摘する、今の子供がさらされている「競争原理」もまた、もっともらしいだけの疑似的説明かもしれない。競争原理が緩和され、北欧型の福祉国家になったからと言って、別に不登校が無くなるとも限らない。(私の不登校を思い返しても、当時すでに90年代だったけれど、「競争原理」が原因かどうか実に怪しい。)
 これが例えば兵役拒否だったら、右翼が「愛国心はないのか」と怒っても、反戦左翼の人が、「戦争で人を殺すことが嫌なんだね。いや、君は立派だよ」とほめたたえてくれるだろう。

 マルクス共産主義革命のための綱領を作ったが、「土地私有の廃止」といった、結局成功せず、いまだ実現されてないといえる目標の一方で、「公立学校の無償化」とか、「児童の工場労働の禁止」といった、現在先進国で完璧に実現されているものもある。
 児童労働の制限と、公教育の普及は、子供を過酷な労働から解放し、資本家の搾取、ろくでもない親から解放する福祉だった。
 マルクスの同志エンゲルスは、ルソーを平等主義の先駆者として高く評価した。ある部分では、ルソーを「マルクス資本論がたどっているものと瓜二つの思想の歩み」といっている(「反デューリング論」)。
 そしてまた、そのように評価されるルソーだからこそ、共産主義の理想に潜む危うさを、見事に先取りしていた。恐怖政治で有名なロベスピエールが、ルソーの熱烈な読者だったことも、これまた有名だ(彼はルソーの自宅を訪ねたこともある)。
 ロベスピエールの恐怖政治は、別にルソーの「誤読」とか「曲解」ともいえない。ルソーの本には、「執政体が「お前の死ぬのは、国家のためになる」といえば、市民は死ななければならない」(中公クラシックス「社会契約論」249ページ)という、ドキッとするような一句もあるからだ。
 国王や貴族が思うままに支配する封建社会に憤ったルソー(そしてロベスピエール)だが、いったん革命によって「民意が実現されている」民主主義社会になれば、国家の仕組みは自分の意志で行った約束ということになる。それが社会契約説だ。
 だからこそ、民主主義社会では、国家が死ねと命じることも、国王や貴族の気まぐれではなく、自分もその一人である人民の意志だから、自発的な約束と同じ「正義」になる。(市野川容孝「社会」では、このようなルソー思想のファシズム的傾向を、詳しく検討している。)
 現代の先進国では、恐怖政治のギロチンのようなことはないが、ネットの書き込みが、「言論のギロチン」かもしれない。
 生活保護受給者、引きこもり、登校拒否児、この社会への参加と貢献を拒否するやつは、殺せといかなくても、見捨てろ見捨てろ、その分の福祉を、健康で社会に貢献している人間に回せ、といううめき・・・、グツグツ煮詰まった釜の底のような怨念が、インターネットに満ちている・・・。

 

 市野川容孝「社会」は、2006年の本で積読になっていたが、ルソー、マルクスのような「平等」「再分配」を唱える正義が、繰り返しファシズム的リスクを持つ構造について、興味深い本である。
 市野川氏は、だからと言って平等主義を丸ごと否定するのではなく、なんとか粘り強く実現する道を探る。
 私なりに思っていることも合わせると、再分配、今風に言えば「格差是正」に冷淡な、ロック、ヒューム、アダム・スミスなど、イギリス哲学の系譜のほうが、ファシズム的リスクを免れている(現実のイギリスの歴史がそうなっている)というのはなかなか頭を抱えさせる。

 

社会 (思考のフロンティア)

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人間不平等起原論・社会契約論 (中公クラシックス)

人間不平等起原論・社会契約論 (中公クラシックス)